日本の国歌として知られる君が代、そのルーツが古今和歌集にあることをご存知でしょうか。
この記事では、古今和歌集の君が代について、その元の和歌の原文や意味を深く掘り下げます。
そもそも古今和歌集とは何か、古今和歌集の簡単な説明から始め、古今和歌集が成立した何時代か、そして古今和歌集は誰の命令で、誰がまとめた人なのかという基本情報、さらにその特徴や有名な和歌にも触れていきます。
また、君が代の原歌は?という疑問に答え、歌詞が古今和歌集にどう記されているかを探ります。
作者が詠み人知らずとされる謎や、そもそも古今和歌集の作者は誰かという点まで、この和歌にまつわる様々な論点を解説します。
- 古今和歌集の成立背景や特徴が分かる
- 君が代の原歌の歌詞と本来の意味が理解できる
- 作者が「読人知らず」とされる理由が分かる
- 和歌から国歌へと至る君が代の歴史が分かる
古今和歌集と君が代、その歴史的背景

- そもそも古今和歌集とは
- 古今和歌集の簡単な説明と特徴
- 古今和歌集は何時代の和歌集か
- 古今和歌集は誰の命令で編纂?
- 古今和歌集をまとめた人と有名な和歌
そもそも古今和歌集とは

古今和歌集は、日本で最初の勅撰和歌集です。
勅撰和歌集とは、天皇や上皇の命令によって編纂された和歌集のことを指します。
それまでの和歌集の代表格であった『万葉集』が、天皇から庶民まで幅広い階層の人々の歌を収めていたのに対し、古今和歌集は主に宮廷の貴族たちの洗練された歌を中心に集められました。
この和歌集の成立は、その後の日本の和歌の方向性を決定づける大きな出来事であり、後世の歌人たちにとっての模範とされています。
言ってしまえば、古今和歌集は、和歌が日本の公的な文学として確立したことを示す記念碑的な作品なのです。
ここで確立された美意識や表現技法は、後の『新古今和歌集』などにも受け継がれ、千年以上にわたって日本文化に深い影響を与え続けています。
古今和歌集の簡単な説明と特徴

古今和歌集は、全体で約1100首の和歌が収められており、全20巻で構成されています。
その最大の特徴は、歌を内容ごとに分類し、体系的に配列している点にあります。
部立てによる構成
具体的には、春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、賀、離別、羇旅(きりょ)、物名(もののな)、恋(一~五)、哀傷、雑(上・下)、雑体、大歌所御歌(おおうたどころのみうた)といった「部立て」が行われています。
これにより、読者は季節の移ろいや人の心の動きを、まるで一つの物語のように追体験することができるのです。
特に、全体の約3分の1を占める恋の歌は、出会いから別れまでの過程を順に追って配置されており、繊細な心情の変化が巧みに表現されています。
優美で理知的な歌風
もう一つの特徴は、「たをやめぶり」と評される優美で理知的な歌風です。
『万葉集』の素朴で力強い「ますらをぶり」とは対照的に、古今和歌集の歌は観念的で、洗練された言葉遣いや掛詞・縁語などの技巧が駆使されています。
この知的で繊細な美意識が、平安貴族の価値観を色濃く反映していると言えるでしょう。
古今和歌集は何時代の和歌集か

古今和歌集が編纂されたのは、日本の歴史区分でいうと平安時代前期にあたります。
具体的には、10世紀初頭の延喜5年(905年)に醍醐天皇の命令によって編纂が開始され、延長年間(923年~931年)頃に完成したとみられています。
この時代は、遣唐使が廃止(894年)された後、日本が独自の文化、いわゆる「国風文化」を育み始めた重要な時期でした。
それまで中国文化の影響が強かった宮廷社会において、日本の感性に基づいた文学や芸術が花開こうとしていたのです。
古今和歌集の成立は、まさにその国風文化の幕開けを象徴する出来事でした。
漢詩文が公的な文学の中心であった時代に、和歌を漢詩と対等な地位にまで高め、日本の言葉の美しさを再認識させるきっかけとなったのです。
古今和歌集は誰の命令で編纂?

古今和歌集は、第60代天皇である醍醐天皇の勅命(天皇の命令)によって編纂されました。
当時の政治を主導していた醍醐天皇は、律令政治の復興を目指すなど、安定した治世を築いた名君として知られています。
その文化政策の一環として、和歌の収集と整理を命じたのです。
仮名序に記された編纂の経緯
編纂者の一人である紀貫之が執筆した『仮名序』には、編纂の経緯が記されています。
そこには、人の心を揺り動かす和歌の力を称え、散逸しがちであった古今の優れた和歌を集めて後世に伝えようという、天皇の強い意志が示されています。
このように、天皇自らが編纂を命じたという権威性が、古今和歌集を日本の古典文学における最高峰の一つたらしめている大きな理由です。
古今和歌集をまとめた人と有名な和歌

古今和歌集を実際に編纂したのは、醍醐天皇から命を受けた4人の歌人たちです。
編纂者 | 読みがな | 備考 |
---|---|---|
紀貫之 | きのつらゆき | 編纂の中心人物。『仮名序』の執筆者でもある。 |
紀友則 | きのとものり | 紀貫之の従兄弟。完成前に没したとされる。 |
凡河内躬恒 | おおしこうちのみつね | 自然描写や叙景歌に優れた歌人。 |
壬生忠岑 | みぶのただみね | 技巧的で繊細な歌風で知られる。 |
これらの撰者たちは、当時最高の歌人として宮廷で活躍していました。
中でも紀貫之は、リーダーとして編纂作業全体を取り仕切った中心人物です。
古今和歌集の有名な和歌
古今和歌集には、現代でも多くの人に知られる有名な歌が数多く収められています。
- 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける(紀貫之)
あなたの心はさて、どう変わったか分かりません。しかし、馴染みのこの場所では、梅の花だけが昔と変わらない香りで咲いていますね。 - 思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを(小野小町)
あの人のことを思いながら眠ったから、夢に出てきてくれたのでしょうか。もし夢だと分かっていたなら、目を覚まさなかったでしょうに。
これらの歌は、古今和歌集が持つ優雅で繊細な世界観をよく表しています。
古今和歌集に詠まれた君が代の和歌

- 君が代の原歌はどのような和歌?
- 元の和歌の原文と歌詞 古今和歌集の記述
- 和歌に込められた本来の意味
- 作者はなぜ詠み人知らずなのか
- では古今和歌集の作者は誰?
君が代の原歌はどのような和歌?

現在の国歌「君が代」の原歌は、古今和歌集の巻七「賀歌(がのうた)」の巻頭に収められています。
賀歌とは、長寿や繁栄など、おめでたいことを祝う際に詠まれる歌のことです。
つまり、君が代のルーツは、特定の思想を表現したものではなく、純粋な祝福の気持ちを詠んだお祝いの和歌だったのです。
古今和歌集に収められた賀歌は、天皇の治世を祝うものから、個人の長寿を祝うものまで様々でした。
君が代の原歌は、その中でも冒頭に置かれていることから、賀歌を代表する一首として当時から認識されていたと考えられます。
この歌は、特定の個人だけを対象とするのではなく、祝いの席の主賓や、敬愛する相手の末永い幸せを願う、普遍的な祝賀の歌として、古くから人々の間で歌い継がれてきたのです。
元の和歌の原文と歌詞 古今和歌集の記述

現在の君が代の歌詞と、古今和歌集に記されている元の和歌とでは、実は最初の部分が少し異なっています。
区分 | 歌詞 |
---|---|
古今和歌集の原文 | 我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで |
現在の国歌 | 君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで |
このように、元の和歌では初句が「我が君は」となっています。
これは「私の大切なあなた様は」という意味で、より直接的に相手への敬意や親愛の情を示す表現です。
一方、現在の「君が代は」は、「あなたの御代(治世や人生)は」という意味合いになります。
「我が君」という直接的な表現が、時代を経るにつれて「君が代」という、より客観的で広い意味を持つ表現へと変化していきました。
この変化によって、この歌は個人の祝いの席だけでなく、より公的な場でも歌われるようになったと考えられます。
和歌に込められた本来の意味

君が代の和歌に込められた本来の意味を理解するには、「君」「代」「さざれ石」という3つの言葉が重要になります。
「君」と「代」の意味
古今和歌集が詠まれた平安時代において、「君」という言葉は、必ずしも天皇だけを指すものではありませんでした。
主君や両親、友人、恋人など、自分が敬愛する相手に対して広く使われる敬称だったのです。
同様に「代」も、天皇の治世だけでなく、人の一生や年齢を意味する言葉でした。
つまり、「君が代」の原歌は、「(私が敬愛する)あなたの命が、末永く続きますように」という、身近な人への長寿を祝う気持ちが込められた歌と解釈できます。
「さざれ石の巌となりて」の比喩表現
「さざれ石」とは、漢字で「細石」と書くように、小さな石や小石のことを指します。
この小さな石が長い年月をかけて集まり、大きな一つの岩(巌)となり、さらにその表面に苔が生えるまで、という部分は、限りなく悠久の年月を表現した壮大な比喩です。
目には見えない「時間」という概念を、「小石が岩になる」という具体的なイメージで表現することで、相手の長寿と繁栄が永遠に続くことを願う気持ちを、より深く印象付けているのです。
作者はなぜ詠み人知らずなのか

古今和歌集に収録されている君が代の原歌は、「読人知らず(よみびとしらず)」として記載されています。
これは、この歌を詠んだ作者が特定できない、という意味です。
読人知らずとされる理由はいくつか考えられます。
一つは、作者の身分が低かったために記録されなかった可能性です。
しかし、より有力な説として、この歌が特定の個人の創作物ではなく、古くから民衆の間で自然発生的に生まれ、祝いの席などで歌い継がれてきた「民謡」のような存在だったから、というものが挙げられます。
特定の作者を持たず、多くの人々によって共有され、歌われてきたからこそ、あえて「読人知らず」として収録されたのかもしれません。
この事実は、君が代が元々、一部の権力者のためだけではなく、広く庶民に親しまれた歌であったことを示唆しています。
では古今和歌集の作者は誰?

前述の通り、君が代の和歌そのものを詠んだ作者は「読人知らず」で不明です。
一方で、「古今和歌集」という和歌集全体のプロジェクトを管理し、歌を選び、編纂した「作者(編纂者)」は明確に分かっています。
それが、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人です。
このように、「歌の作者」と「歌集の作者(編纂者)」は区別して考える必要があります。
- 君が代の和歌の作者
不明(読人知らず) - 古今和歌集の編纂者
紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑
君が代の作者は分かりませんが、紀貫之をはじめとする編纂者たちが、数ある賀歌の中からこの一首を選び、巻頭に配置したことで、この歌の価値が公に認められ、後世へと伝えられることになりました。
総括:古今和歌集と君が代の深い関係

- 君が代の原歌は、日本初の勅撰和歌集である古今和歌集に収録されている
- 古今和歌集は平安時代前期、醍醐天皇の命令により編纂された
- 編纂者は紀貫之ら4人の歌人である
- 原歌は、長寿や繁栄を祝う「賀歌」に分類される
- 作者は特定されておらず「読人知らず」として記されている
- これは、古くから民間で歌い継がれてきた歌であった可能性を示唆する
- 古今和歌集での初句は「我が君は」であり、現在の「君が代は」とは異なる
- 「我が君は」は、敬愛する相手を直接指す言葉だった
- 当時の「君」は天皇だけでなく、主君や親、友人など広い意味で使われた
- 「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」は、永遠に近い悠久の年月を表す比喩表現である
- 本来は、身近な人の長寿と幸せを願う、普遍的なお祝いの歌であった
- この和歌が、後の時代に国歌の歌詞として選ばれることになる
- 古今和歌集に収録されたことで、この歌の文学的価値が確立された
- 君が代を理解する上で、古今和歌集の知識は不可欠である
- 和歌の背景を知ることで、歌詞への解釈がより深まる