君が代の作者は一体誰が作ったのか、多くの人が疑問に思うことでしょう。
実は、この歌の作詞は作者不明とされており、その成り立ちは古今和歌集にまで遡ります。
君が代がいつから歌われ、いつできたのかという歴史の中では、作者が外国人だったという説も存在しました。
また、歌詞がおかしい、あるいは意味が怖いと感じる方もいるようですが、その本当の意味を知ることで見方が変わるかもしれません。
かつては国歌じゃない時代もあり、現代でも君が代を歌わない理由を挙げる人々がいます。
この記事では、君が代の作者に関する謎から、歌詞の意味、歴史的背景まで、あらゆる疑問にお答えします。
- 君が代の作詞者と作曲者が誰なのかという歴史
- 歌詞の本当の意味と「怖い」といわれる解釈
- 国歌として制定されるまでの複雑な経緯
- 君が代をめぐる現代の様々な論点
君が代の作者は一人ではない?作詞と作曲の歴史

- 君が代は誰が作ったのか?
- 作詞の元になった古今和歌集の和歌
- 歌詞の作詞はなぜ作者不明なのか
- 曲の作者が外国人という説の真相
- 君が代の成り立ちといつできたか
- 君が代はいつから歌われているの?
君が代は誰が作ったのか?

結論から言うと、君が代の作者は「この一人である」と特定することはできません。
なぜなら、歌詞を作った「作詞者」と、曲を作った「作曲者」が全く異なる時代の人物であり、それぞれに複数の人物や説が関わっているためです。
まず、歌詞の元となった和歌は平安時代に作られましたが、詠み人がわかっていません。
一方で、現在私たちが耳にする旋律は明治時代に作られました。
これも一人の手によるものではなく、原案作成者、補作者、そして編曲者と、複数の専門家が関わって完成しました。
このように、君が代は1000年以上の時を経て、様々な人々の手を経て現在の形になった歌であり、作者を一言で語るのは非常に難しいのです。
作詞の元になった古今和歌集の和歌

君が代の歌詞の原型は、今から1100年以上前の平安時代、905年頃に醍醐天皇の命令によって編纂された、日本初の勅撰和歌集である『古今和歌集』に収録されている一首の和歌です。
巻第七「賀歌(がのうた)」の巻頭に、「読人知らず」として次のように記されています。
我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
「賀歌」とは、長寿や繁栄などのおめでたいことをお祝いする歌のことです。
この歌も、特定の誰かの長寿を願って詠まれたものと考えられています。
ちなみに、歌詞は現在と少し異なり、初めは「君が代は」ではなく「我が君は」でした。
この「君」という言葉は、当時は天皇だけに使う言葉ではなく、主君や友人、愛する人など、敬意を払う相手に対して広く使われていました。
そのため、この歌はもともと「あなた様が末永くお元気でありますように」という、身近な人への祝福のメッセージだったのです。
この「我が君は」という表現が、時代を経てより広い意味で使える「君が代は」へと変化し、多くの人々に歌い継がれていきました。
歌詞の作詞はなぜ作者不明なのか


君が代の作詞者が「作者不明」とされる最も大きな理由は、原典である『古今和歌集』に「読人知らず(よみびとしらず)」として収録されているからです。
平安時代には、優れた歌であっても、作者が誰であるか伝わっていなかったり、作者の身分が高くなかったためにあえて名前が記されなかったりする歌が数多く存在しました。
君が代の元となった歌も、そうした歌の一つだったと考えられます。
もちろん、後世の研究者たちによって、実際の作者は誰だったのかという研究がなされてきました。
例えば、江戸時代の国学者である堯智(ぎょうち)は、自著の中で「この歌の作者は橘清友(たちばなのきよとも)ではないか」という説を唱えています。
また、文徳天皇の皇子に仕えた木地師(きじし)が詠んだ歌で、その功績により「藤原朝臣石位左衛門(ふじわらのあそんいしいざえもん)」という名を賜った、という民間伝承も存在します。
ただ、これらの説はいずれも決定的な証拠に欠けており、学術的に作者を一人に特定することはできていません。
そのため、現在でも公式には「作者不明の古歌」として扱われています。
曲の作者が外国人という説の真相


「君が代の作曲者は外国人」という話を聞いたことがあるかもしれませんが、これは初代の君が代に限って言えば事実です。
話は明治維新直後の1869年(明治2年)に遡ります。
当時、横浜に駐留していたイギリス公使館の護衛隊長で、軍楽隊の指導者でもあったアイルランド出身のジョン・ウィリアム・フェントンが、「日本には国歌がないのは残念だ。作るべきだ」と進言しました。
この提案を受け、当時薩摩藩の砲兵隊長であった大山弥助(後の大山巌)らが、歌詞として薩摩琵琶の祝い歌「蓬莱山」の一節にあった「君が代」を選び、フェントンに作曲を依頼したのです。
こうして、外国人によって作曲された初代「君が代」が誕生しました。
しかし、西洋的な旋律は当時の日本人の感性にはあまり馴染まず、威厳に欠けるといった意見も多かったため、残念ながら広く普及することはありませんでした。
このフェントン版の存在が、「君が代の作者は外国人」という説の元になっています。
君が代の成り立ちといつできたか


現在の荘厳なメロディを持つ君が代は、1880年(明治13年)に完成しました。
フェントン版が普及しなかったことから、より日本らしい国歌を求める声が高まり、全面的に作り直されることになったのです。
現行版「君が代」の誕生
作曲の中心となったのは、宮内省の雅楽課に所属する音楽家たちでした。
特に、伶人(雅楽の演奏家)であった林廣守(はやしひろもり)が提出した旋律が採用されたと公式には記録されています。
ただし、実際には林廣守の息子や、同僚の奥好義(おくよしよし)がメロディの原案を作成し、それを林廣守がまとめた、というのが実情に近いようです。
この日本古来の雅楽に基づいた旋律に、当時お雇い外国人として海軍軍楽隊を指導していたドイツ人音楽教師、フランツ・エッケルトが西洋音楽の和声(ハーモニー)を付け、吹奏楽や合唱に適した荘厳な編曲を施しました。
こうして、日本の伝統と西洋の音楽理論が融合した現在の君が代が完成し、1880年11月3日の天長節(明治天皇の誕生日)に、宮中で初めて公式に披露されたのです。
この日が、現行の「君が代」ができた日と言えます。
君が代はいつから歌われているの?


君が代が「いつから」歌われているかは、どのような立場の歌として捉えるかで答えが変わります。
歌の立場 | 時期 | 概要 |
---|---|---|
和歌として | 平安時代(10世紀頃)~ | 『古今和歌集』に収録されて以降、祝いの歌として様々な場面で詠まれ、謡曲や小唄、浄瑠璃などに取り入れられ庶民にも広まりました。 |
礼式曲として | 明治時代(1880年)~ | 現行の曲が完成し、主に海軍の儀式で演奏されました。その後、学校教育を通じて祝祭日の儀式で歌われるようになり、国民の間に普及していきました。 |
法的な国歌として | 平成時代(1999年)~ | 「国旗及び国歌に関する法律」が制定され、法律上の正式な日本の国歌と定められました。 |
このように、歌詞の起源は1000年以上前に遡りますが、私たちが知る「国歌・君が代」として歌われるようになったのは明治時代からのことです。
そして、誰もが認める法的な国歌としての歴史は、比較的最近である平成時代から始まりました。
時代と共にその役割を変えながら、君が代は歌い継がれてきたのです。
君が代の作者にまつわる歌詞の解釈と様々な疑問


- 歌詞の本当の意味と怖いと言われる解釈
- 歌詞がおかしいと感じる部分の解説
- 国歌じゃないとされた時代の背景
- 君が代を歌わない理由として挙げられること
- 君が代の作者についての総まとめ
歌詞の本当の意味と怖いと言われる解釈


君が代の歌詞は、その解釈をめぐって様々な意見がありますが、本来は非常に平和で、おめでたい意味を持つ歌です。
歌詞のフレーズ解説
- 君が代は
「君」はあなた、「代」は命や時代を指し、「あなたの命が、あなたの時代が」という意味になります。古くは特定の個人を指しましたが、現在では日本国憲法に基づき「日本国および日本国民統合の象徴である天皇」を指し、ひいては「私たちの国、日本」と解釈するのが政府の公式見解です。 - 千代に八千代に
「千年も、八千年も」という非常に長い年月を表す言葉です。 - さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
「さざれ石」とは、小さな小石のことです。その小さな石が、長い年月をかけて集まり、大きな巌(いわお)となり、さらにその表面に苔が生えるまで、という意味です。これは、限りなく長い年月と、結束による繁栄を象徴した、壮大な比喩表現です。
つまり、歌詞全体を現代語訳すると「私たちの国が、千年も八千年も、小さな石が大きな岩となり苔が生えるほどの長い年月、平和でありますように、栄え続けますように」という、国の永続的な平和と繁栄を祈る歌となります。
「怖い」と言われる解釈とその背景
一方で、君が代の歌詞が「怖い」と感じられることがあるのも事実です。
この解釈は、主に戦前の歴史的背景と深く関わっています。
戦前の大日本帝国憲法下では、「君」は絶対的な主権者である天皇を指し、君が代は天皇の治世を永遠に賛美し、国民に忠誠を誓わせる歌として利用されました。
このような軍国主義的なイメージが強く残っているため、「個人の自由よりも国家を優先させる」「天皇のために尽くすことを強制する」といった意味合いを感じ取り、怖いと解釈する人々がいます。
ただ、これは歌詞が作られた平安時代の本来の意味ではなく、特定の時代に付与された解釈の一つです。
現在の公式見解では、あくまで国の平和と繁栄を願う歌とされています。
歌詞がおかしいと感じる部分の解説


君が代に対して「歌詞がおかしい」と感じる方がいるのには、いくつかの理由が考えられます。
これは主に、現代の言語感覚や科学的知識とのギャップによるものです。
「さざれ石が巌になる」のは非科学的?
歌詞の中の「さざれ石の巌となりて」という部分について、「科学的にありえない」という指摘があります。
確かに、一つの小石が成長して巨大な岩になることはありません。
しかし、これは文学的な比喩表現と捉えるのが適切です。
小さな存在(国民一人ひとり)が団結し、長い年月をかけて大きな力(国家の繁栄)を築き上げる様を、自然の情景に重ねて表現しているのです。
また、実際に「さざれ石」は、石灰岩が雨水などで溶け、その石灰質を含んだ水が小石を集めて固めることでできる「石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)」という岩石を指すこともあります。
この場合、「小さな石が集まって大きな岩になる」という現象は実際に起こりうるものであり、非科学的とまでは言えません。
旋律と歌詞が合っていない?
音楽的な観点から、「歌詞のアクセントとメロディが一致していないため歌いにくい」という指摘もあります。
これは、作曲家の中田喜直氏などが指摘している点で、専門家の間でも議論があります。
この理由は、君が代の旋律が西洋音楽の理論ではなく、日本の伝統音楽である「雅楽」の様式に基づいて作られているためです。
雅楽は言葉一つひとつの響きを大切にし、荘厳な雰囲気を醸し出すことを重視するため、現代のポップスのように言葉のアクセントとメロディラインが完全に一致しない場合があります。
この独特の間や響きが、人によっては「おかしい」あるいは「歌いにくい」と感じられる原因かもしれません。
国歌じゃないとされた時代の背景


君が代は、1999年に法律が制定されるまで、実は「正式な国歌」ではありませんでした。
法律上の根拠がないまま、「事実上の国歌」として扱われるという、少し特殊な状況が長く続いていたのです。
明治時代に現行の曲が作られた際、政府内で国歌を法的に定めようという動きは何度かありました。
しかし、様々な意見の対立から法制化には至らず、最終的には文部省の告示によって「小学校の祝日大祭日の儀式で歌う歌」の一つとして位置づけられるに留まりました。
第二次世界大戦後には、連合国軍総司令部(GHQ)によって、軍国主義の象徴と見なされた君が代の斉唱が一時的に禁止・制限されました。
この時期には「緑の山河」や「われらの日本」など、新しい国民歌を制定しようという動きもありましたが、いずれも国民的な支持を得て定着することはありませんでした。
サンフランシスコ平和条約によって日本が主権を回復すると、君が代は再びオリンピックなどの国際的な場で国歌として演奏されるようになります。
しかし、法的な裏付けがない状態は変わらず、この曖昧な状況を解消するために、1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」が制定され、ようやく君が代は正式に日本の国歌となったのです。
君が代を歌わない理由として挙げられること


君が代を歌わない、あるいは歌うことに抵抗を感じる人がいる背景には、様々な理由が存在します。
これは個人の思想や信条、歴史観に深く関わるデリケートな問題です。
主な理由としては、以下のような点が挙げられます。
- 歴史的背景への抵抗
前述の通り、君が代が戦前の軍国主義や天皇崇拝と強く結びついていた歴史から、その斉唱に抵抗を感じるという意見です。特に、日本国憲法が定める国民主権や基本的人権の尊重といった理念と、君が代のイメージが相容れないと考える人々がいます。 - 教育現場での強制に対する反発
戦後、特に学校の入学式や卒業式での君が代斉唱をめぐっては、教職員組合などを中心に長年対立が続いてきました。国歌斉唱が半ば強制的な形で行われることに対し、思想・良心の自由を侵害するものだとして反発する声があります。 - 歌詞の解釈の違い
政府の公式見解とは異なり、「君が代」を特定の政治体制や権威を賛美する歌だと解釈し、その価値観に同意できないために歌わないという立場です。 - 個人的な関心の薄さ
上記のような思想的な理由とは別に、単純に「歌詞の意味を知らない」「メロディが歌いにくい」「歌う習慣がない」といった、君が代自体への関心が薄いために歌わないという人も少なくありません。
これらの理由は一つだけではなく、複合的に絡み合っている場合もあります。
君が代を歌うか歌わないかは、最終的には個人の判断に委ねられるべき問題と言えるでしょう。
君が代の作者についての総まとめ


- 君が代の作詞は作者不明である
- 歌詞の原典は古今和歌集に収録された和歌
- 元の歌の初句は「我が君は」であった
- 作曲は明治時代に複数の人物が関わった
- 初代の曲はイギリス人フェントンが作曲
- 現行の曲は林廣守が作曲したとされる
- ドイツ人エッケルトが西洋和声で編曲した
- 歌詞は相手の長寿や国の繁栄を願う意味
- 「怖い」という解釈は主に歴史的背景に由来
- 法的な国歌になったのは1999年から
- それまでは法律上の根拠がない事実上の国歌
- 戦後、GHQにより一時的に斉唱が制限された
- 歌詞や旋律は日本の古典に基づいている
- 歌わない理由は個人の思想や信条によるものが多い
- 作者に関する説は複数存在するが確証はない