ドイツの国歌には、なぜ一部の節が歌われなくなったのでしょうか。
歴史的な背景や歌詞の意味を知ることで、その理由が見えてきます。
この記事では、ドイツ国歌の成り立ちから現在に至るまでの変遷、各節の意味、そして歌詞が抱える過去の重みについてわかりやすく解説します。
国歌を通じて、ドイツという国の歩みと価値観の変化を理解できるようになります。
- ドイツ国歌の成り立ちと歴史的背景
- 第1節が使われなくなった理由
- ナチス時代との関係と影響
- 現在のドイツ国歌の意味と特徴
ドイツの国歌 歴史と現在を解説

- 国歌の成り立ちと作曲者
- 国歌と歴史 帝国との関係
- ナチスドイツ時代の国歌の扱い
- ドイツの国歌 1番が禁止の理由とは
- 歌詞が怖いとされる背景を探る
国歌の成り立ちと作曲者
ドイツの国歌「ドイツの歌(Deutschlandlied)」は、18世紀の後半に作られたメロディーと、19世紀に生まれた詩が合わさって成立しました。
現在でもこの歌の第3節が正式な国歌として使用されています。
作曲を担当したのは、オーストリア出身の作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドンです。
彼は1797年、神聖ローマ皇帝フランツ2世の誕生日にあわせて、皇帝を称える賛歌「神よ、皇帝フランツを守りたまえ(Gott erhalte Franz den Kaiser)」のメロディーを作曲しました。
この旋律は後に「皇帝四重奏曲」として弦楽四重奏にも用いられ、ハイドンの代表作の一つとなっています。
一方、この旋律に詩を付けたのが、ドイツの詩人アウグスト・ハインリッヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベンです。
1841年、彼はイギリス領だったヘルゴラント島で休暇を過ごす中、「ドイツ」という国が存在しない現実に衝撃を受け、統一ドイツへの願いを込めて詩を書き上げました。
詩の冒頭である「ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ」という言葉には、当時39の小国家に分かれていたドイツ語圏を一つの国家にまとめたいという強い思いが込められていました。
このように、ドイツ国歌の成り立ちは、音楽と詩、それぞれの背景にある歴史的・政治的な思いが融合したものです。
作曲者ハイドンの旋律は本来、皇帝への忠誠を歌ったものであり、詩人ホフマンの詞は民族の統一を願った自由主義的なものです。
この二つが重なり、長い歴史の中で現在の国歌へと形を変えてきました。
ただし、現在のドイツでは、すべての節が国歌として使用されているわけではありません。
後述するように、第1節や第2節にはさまざまな歴史的背景や論争があり、公式には第3節のみが国歌として採用されています。
国歌と歴史 帝国との関係
ドイツの国歌「ドイツの歌」は、19世紀から20世紀にかけてのドイツの政治的な変遷と深く関わっています。
その背景には、神聖ローマ帝国の崩壊、ドイツ帝国の誕生、そしてその後の共和国や分断国家としての時代が存在します。
まず、国歌の歌詞が書かれたのは1841年、当時はまだ「ドイツ帝国」は存在せず、「ドイツ連邦」と呼ばれる39の国家のゆるやかな集合体にすぎませんでした。
ホフマン・フォン・ファラースレーベンの歌詞は、こうした小国家の分裂状況に対する強い問題意識から生まれました。
歌詞に出てくる「マース川からメーメル川まで、エチュ川からベルト海峡まで」という表現は、ドイツ語話者が住む広範な地域を意味し、統一ドイツ国家の構想を象徴しています。
その後、1871年にビスマルクによってドイツ帝国が成立しましたが、このとき正式な国歌は制定されませんでした。
非公式には「皇帝陛下万歳(Heil dir im Siegerkranz)」が国歌的存在として扱われ、「ドイツの歌」は当時まだ完全に定着していなかったのです。
国歌として「ドイツの歌」が公式に扱われるようになったのは、第一次世界大戦後、ヴァイマル共和国の成立を受けてからでした。
1922年、社会民主党政権下でこの歌が国歌として採用され、ドイツ人の統一と自由、正義を象徴するものとして広まりました。
しかし、この歌の地理的範囲を示す表現は、戦争後の領土喪失によって現実と乖離することになりました。
また、後にナチス政権によってこの歌の第1節が利用されたことで、過去の帝国的な野望と結びつく印象も生まれてしまいました。
このように、ドイツの国歌はただの愛国歌ではなく、ドイツの政治体制や国家理念の変遷を映し出す存在です。
帝国の時代における象徴性、そしてその後の変化を理解することは、国歌の真の意味を読み解く手がかりとなります。
ナチスドイツ時代の国歌の扱い
ナチス・ドイツの時代、「ドイツの歌」は大きく政治的に利用されました。
特にその第1節は、ナチスのプロパガンダと結びつき、戦後の評価にも大きな影響を与えています。
結論から言えば、ナチス政権下では「ドイツの歌」の第1節のみが国歌として使用され、他の節は排除されました。
第1節に含まれる「ドイツよ、すべてのものの上にあれ」という表現が、ドイツ民族の優越性や領土的野心と結びつけられたためです。
このフレーズは、本来ドイツ統一を願う意味で書かれたものでしたが、ナチスはこれを拡大解釈し、他民族に対する支配や拡張主義の象徴として使いました。
このような背景から、「ドイツの歌」は、ナチスの党歌「旗を高く掲げよ(Horst-Wessel-Lied)」とともに国家的行事で演奏されることが定着していきました。
実質的には、これら2曲がセットで使われることが通例となり、「ドイツの歌」の第1節はナチス体制を正当化する手段の一つとして機能していたのです。
第二次世界大戦の敗北後、連合国はこの歌を禁止しました。
ナチスと深く結びついた象徴として認識されていたため、使用そのものが処罰の対象となりました。
ただし、ドイツ国内ではこの歌に対する複雑な感情があり、国民の一部は歌詞全体をナチスのものと見なしていなかったため、その後の対応が困難を極めることになります。
戦後、特に西ドイツでは、「ドイツの歌」を国歌として再び使用するかどうかをめぐって大きな議論が起こりました。
最終的には、第3節のみを正式な国歌として採用することで、ナチス時代の負の歴史との決別を図りました。
ナチス時代の扱いが、現在でも第1節や第2節が国歌として歌われない理由のひとつです。
歌詞そのものの意図とは裏腹に、過去の使われ方によってイメージが固定化されてしまった点は、歴史の重みと記憶の力を感じさせます。
ドイツの国歌 1番が禁止の理由とは
ドイツ国歌の第1番が公式に禁止されているわけではありませんが、現在は事実上、公的な場での使用が避けられています。
その理由は、ナチス・ドイツ時代の象徴として悪用された過去にあります。
今日、ドイツの国歌として用いられているのは第3番のみであり、第1番を公に歌うことには慎重な姿勢が求められています。
第1番の冒頭に登場する「ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ(Deutschland, Deutschland über alles)」という表現が問題の核心です。
本来この言葉は、19世紀当時のドイツが多数の小国に分裂していた状況を背景に、統一国家の実現を強く願う意味で使われていました。
つまり、「分裂状態を越えて、ドイツが一つにまとまるべきだ」という願望を示していたのです。
しかし、20世紀前半になると、ナチス政権がこの歌詞を「ドイツの優越性」や「領土拡張」の意図を持って利用し始めました。
第1番の中にある「マース川からメーメル川まで、エチュ川からベルト海峡まで」という表現も、旧ドイツ領や他国の領域を含むことから、拡張主義的な野心を象徴すると受け取られるようになりました。
ナチス時代、この歌の第1番は国家行事で盛んに使われ、ドイツの覇権主義や軍国主義を正当化する象徴として扱われました。
戦後のドイツでは、過去の過ちを繰り返さないという社会的合意のもと、この第1番の歌詞が持つイメージは非常に重く、否定的なものとなっています。
これにより、公的な式典やスポーツ大会などで第1番を歌うことは避けられ、代わりに第3番のみが国歌として定着しました。
このように、ドイツ国歌第1番が禁止されたというよりも、社会的なコンセンサスに基づき、あえて使われないようになったというのが実態です。
歌詞そのものが悪ではないとしても、歴史的にどう使われたかが現代における評価を決定づける例だといえるでしょう。
歌詞が怖いとされる背景を探る
ドイツ国歌の歌詞が「怖い」と感じられる背景には、単なる表現の問題だけでなく、歴史的文脈と深い結びつきがあります。
特に第1番の歌詞が持つ強い主張や地理的な表現が、ある種の威圧感を与えることが、その印象に影響しています。
「ドイツよ、すべてのものの上にあれ」という一節は、その響きからして排他的または支配的な印象を受けやすく、多くの人にとって不安を覚える言葉と感じられます。
もちろん、これは本来、ドイツ民族の統一を願った言葉でしたが、20世紀前半の歴史によって大きく意味が歪められてしまいました。
さらに、「マース川からメーメル川まで、エチュ川からベルト海峡まで」という地名の羅列も、歌詞全体に異様な重苦しさを与えています。
これらの場所はドイツ語圏の最東端から最西端、最南端から最北端を示していますが、現代の国境を越えて他国の領土を含むため、過去の領土拡張主義と結びつきやすくなっています。
歌詞の中で地理的な野心を描いているように見えてしまうため、「怖い」と感じる人が少なくありません。
また、ナチス・ドイツがこの第1番を国家行事で盛んに用いたことも、「怖さ」の印象を強める大きな要因です。
軍事パレードやプロパガンダ映像の中で繰り返し流されたこの曲は、多くの人にとって不吉な過去の記憶と結びついており、そのメロディーを聞くだけで緊張を覚えるという声もあります。
このように、歌詞の言葉そのものが持つ強さに加え、それが利用されてきた歴史的な背景が、「怖い」という印象を形作っているのです。
今のドイツでは、これらの経緯を踏まえ、国歌として使用するのは第3番のみに限定されています。
歌詞が持つ歴史的負荷を考慮し、平和的な未来を築くための選択がされていると言えるでしょう。
ドイツの国歌 歌詞の意味をわかりやすく解説

- ドイツ国歌の歌詞(原文・カタカナ表記・和訳)
- 歌詞の意味をわかりやすく解説
- 讃美歌と同じメロディの背景
- オーストリアの国歌と同じ曲の理由
- 現在のドイツ国歌は何を歌っているのか
ドイツ国歌の歌詞(原文・カタカナ表記・和訳)
ここでは、ドイツの国歌「Das Lied der Deutschen(ドイツの歌)」について、各節ごとに原文・カタカナ表記・日本語訳をわかりやすくまとめます。
第1節
Deutschland, Deutschland über alles,
Über alles in der Welt,
Wenn es stets zu Schutz und Trutze
Brüderlich zusammenhält,
Von der Maas bis an die Memel,
Von der Etsch bis an den Belt –
Deutschland, Deutschland über alles,
Über alles in der Welt!
カタカナ
ドイチュラント、ドイチュラント ユーバー アレス、
ユーバー アレス イン デア ヴェルト、
ヴェン エス シュテーツ ツー シュッツ ウント トルッツェ
ブリューダーリッヒ ツザンメンヘルト、
フォン デア マース ビス アン ディー メーメル、
フォン デア エッチュ ビス アン デン ベルト —
ドイチュラント、ドイチュラント ユーバー アレス、
ユーバー アレス イン デア ヴェルト!
和訳
ドイツ、ドイツよ、すべての上に、
世界のすべてのものの上に、
もし常に守りと抵抗のために
兄弟のように団結するならば、
マース川からメーメル川まで、
エッチュ川からベルト海峡まで、
ドイツ、ドイツよ、すべての上に、
世界のすべてのものの上に!
第2節
Deutsche Frauen, deutsche Treue,
Deutscher Wein und deutscher Sang
Sollen in der Welt behalten
Ihren alten, schönen Klang,
Uns zu edler Tat begeistern
Unser ganzes Leben lang –
Deutsche Frauen, deutsche Treue,
Deutscher Wein und deutscher Sang!
カタカナ
ドイチェ フラウエン、ドイチェ トロイエ、
ドイチャー ヴァイン ウント ドイチャー ザング
ゾレン イン デア ヴェルト ベハルテン
イーレン アルテン、シェーネン クラング、
ウンス ツー エドラー タート ベガイステルン
ウンサー ガンツェス レーベン ラング —
ドイチェ フラウエン、ドイチェ トロイエ、
ドイチャー ヴァイン ウント ドイチャー ザング!
和訳
ドイツの女性たち、ドイツの誠実さ、
ドイツのワインとドイツの歌声
世界の中でその
古く美しい響きを保ち、
高貴な行いへと私たちを鼓舞し、
一生を通じて導いてくれる —
ドイツの女性たち、ドイツの誠実さ、
ドイツのワインとドイツの歌声!
第3節(現行の国歌)
Einigkeit und Recht und Freiheit
Für das deutsche Vaterland!
Danach lasst uns alle streben
Brüderlich mit Herz und Hand!
Einigkeit und Recht und Freiheit
Sind des Glückes Unterpfand –
Blüh’ im Glanze dieses Glückes,
Blühe, deutsches Vaterland!
カタカナ
アイニッヒカイト ウント レヒト ウント フライハイト
フュア ダス ドイチェ ファータラント!
ダナッハ ラスト ウンス アレ シュトレーベン
ブリューダーリッヒ ミット ヘルツ ウント ハント!
アイニッヒカイト ウント レヒト ウント フライハイト
ズィント デス グリュッケス ウンターファント —
ブリュー イム グランツェ ディーゼス グリュッケス、
ブリューエ、ドイチェス ファータラント!
和訳
団結と法と自由を
ドイツの祖国のために!
それを私たちは皆で目指そう
心と手をもって兄弟のように!
団結と法と自由は
幸福の礎である —
この幸福の輝きの中で咲き誇れ、
咲き誇れ、ドイツの祖国よ!
出典 Lieder-Archiv.de – Das Lied der Deutschen | Deutschland.de – German National Anthem
歌詞の意味をわかりやすく解説
ドイツの国歌「Das Lied der Deutschen」は、3つの節から構成されており、それぞれ異なるメッセージが込められています。
現在公式に使用されているのは第3節のみですが、第1節と第2節にも歴史的背景や当時の価値観が色濃く反映されています。
ここでは、原文・カタカナ表記・和訳を通じて、各節の意味を丁寧に解説します。
第1節では、ドイツという国を何よりも大切な存在として描いています。
その理由は、地域的に分断されていたドイツが、国としての団結を強く求めていた時代背景にあります。
具体的には、ドイツという国が、マース川からベルト海峡まで、広い範囲にわたる一つの国としてまとまることを願っていたのです。
ただし、この節は後の時代に誤解を生む表現として批判され、現在は国歌としては使用されていません。
第2節では、ドイツの伝統的な価値観が表現されています。
主な内容は、ドイツの女性の美徳や忠誠心、そして文化を象徴するワインや歌への誇りです。
これらが人々の精神を高め、人生を通して高貴な行動へと導いてくれるという考えが示されています。
ただ、時代の変化に伴い、これらの価値観が一面的であると見なされることもあり、国歌としての採用は見送られています。
第3節は、現在のドイツ国歌として正式に使われている部分です。
結論から言えば、この節はドイツの理想とされる「団結・法・自由」の3つの価値を力強く訴えています。
その理由は、第二次世界大戦後の新しい民主国家としてのドイツが、こうした普遍的価値を基盤に歩んでいく姿勢を示すためです。
例えば、「心と手をもって兄弟のように」といった表現からは、国民が協力し合う社会を目指していることがわかります。
現代ドイツの象徴としてふさわしい節だと言えるでしょう。
このように、それぞれの節は異なる時代の理想や価値観を表しており、歌詞を読み解くことでドイツの歴史と国民性の一端を知ることができます。
讃美歌と同じメロディの背景
ドイツ国歌のメロディは、元々は賛美歌としても使われていた旋律です。
この曲の起源は、1797年に作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが、当時の神聖ローマ皇帝フランツ2世を称えるために作曲した「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」にあります。
この旋律はその後、弦楽四重奏曲「皇帝」の第2楽章にも使用され、高く評価されました。
このメロディは旋律としての完成度が非常に高く、荘厳さと安定感を兼ね備えていたため、イギリスやアメリカでも讃美歌として取り入れられました。
特に、イギリスの詩人ジョン・ニュートンが書いた「Glorious Things of Thee Are Spoken」という讃美歌のメロディに使われることで、キリスト教徒の間でもよく知られる存在となりました。
日本でも1954年版の讃美歌集に「さかえにみちたる」というタイトルで収録されています。
しかし、このメロディがドイツ国歌にも使われていることから、宗教的な場面での使用に対して批判が出ることもあります。
例えば、ナチス時代の影響により、この曲を賛美歌として歌うことに不快感を覚える人も少なくありません。
特にエホバの証人の中には、この曲がナチスの国歌として認識されたことで誤解を招き、批判を受けた歴史があります。
このように、ハイドンが生み出した旋律は、宗教的な祈りの場と国家的な場の両方で用いられたという点で、非常に珍しい事例です。
旋律自体は中立的なものでありながら、歴史的背景によりその意味合いが変化してきたことが、今日まで続く議論の元になっています。
オーストリアの国歌と同じ曲の理由
ドイツの国歌とオーストリアの旧国歌は、かつて同じメロディを使用していました。
その理由は、どちらも元をたどるとハイドン作曲の「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」に行き着くからです。
この曲は、当時の神聖ローマ皇帝であり、ハプスブルク家の当主であったフランツ2世のために作られたものです。
当時、オーストリアは神聖ローマ帝国の中心地であり、ドイツ語を共通言語として用いていたこともあり、両国にとってこの旋律は自然と共有される形となりました。
1806年に神聖ローマ帝国が崩壊した後も、オーストリア帝国や後のオーストリア=ハンガリー帝国はこの旋律を皇帝讃歌として引き継ぎ、国民の忠誠を示す象徴として使い続けました。
一方、ドイツでもこの旋律は1841年にホフマン・フォン・ファラースレーベンが「ドイツ人の歌」の歌詞を付けたことで、愛国歌として広まりました。
結果的に、ドイツとオーストリアがそれぞれ同じ旋律を異なる文脈で使用するようになったのです。
ただし、現在のオーストリアの国歌は別の曲に変更されています。
戦後、新たな国の出発を象徴するために、オーストリアは「山河の国、大いなる国」という独自の国歌を制定しました。
これにより、両国が同じ旋律を国歌として使用する状況は解消されました。
それでも、歴史的なつながりや文化的共通性を背景に、同じ旋律が二つの国家にまたがって存在していたという事実は、ヨーロッパにおける複雑な歴史やアイデンティティの交差点を象徴するものだと言えます。
現在のドイツ国歌は何を歌っているのか
現在のドイツ国歌は、「ドイツの歌(Deutschlandlied)」の第3番のみを使用しています。
この節の内容は、戦争や領土への言及を避け、現代ドイツの価値観や国民の統一を重視する平和的なメッセージで構成されています。
結論から言えば、この歌詞は「統一」「正義」「自由」という理想を、祖国ドイツの未来に向けて強く願う内容です。
その背景には、ドイツが20世紀に経験した歴史的な教訓があります。
特に第二次世界大戦後、ドイツはナチス政権による過去の過ちから脱却し、民主主義国家として再出発することが求められました。
そのため、戦前に使用されていた第1番や第2番の歌詞は排除され、第3番のみが国歌として選ばれたのです。
第3番の歌詞では、「統一と正義と自由を、祖国ドイツのために」という冒頭の一節から始まります。
ここで歌われている「統一」は、特に東西に分断された時代を経験したドイツにとって重要なキーワードです。
また、「正義」と「自由」は、戦後のドイツが国の基本理念として掲げた価値であり、国民一人ひとりがこれを共有する意義が込められています。
具体的な内容としては、国民が心と手を合わせて協力しながら、この理想を追い求めていこうという前向きな呼びかけが続きます。
終盤には、「この幸福の輝きの中で咲き誇れ、祖国ドイツよ」という表現が使われており、過去の反省に立ちつつも、未来への希望と誇りを謳い上げています。
このように、現在のドイツ国歌は軍事的な要素を含まず、人種や領土への言及もなく、民主主義と平和主義を土台にした国民統合の象徴として存在しています。
どの国においても国歌は国家の精神を反映しますが、ドイツにとっての第3番は、過去を乗り越えて築き上げた新しい価値観を明確に表現したものとなっています。
ドイツ 国歌の歴史と背景を総まとめ
ドイツ国歌の歌詞と意味、そしてその背景にある歴史を知ることは、単なる音楽の理解を超え、ドイツという国の歩みや価値観に触れる貴重な手がかりとなります。
ナチスドイツ時代の国歌の扱いや、ドイツの国歌1番が禁止の理由とは何かといった問題は、歴史的経緯を知らなければ誤解を招きやすい内容です。
現在のドイツ国歌は、団結・自由・法の尊重といった平和的な理想を象徴する存在です。
国歌に込められた意味を知ることで、過去の教訓と向き合いながら、現代ドイツの姿勢を深く理解できるようになります。
- ドイツ国歌は「ドイツの歌(Deutschlandlied)」という名称である
- 作曲者はオーストリア出身のハイドンである
- 原曲は皇帝賛歌として1797年に作られた
- 歌詞は詩人ホフマンが1841年に書いた
- 当初の歌詞はドイツ統一を願う内容だった
- 国歌として採用されたのは1922年のヴァイマル共和国時代である
- ナチス時代には第1節のみが国歌として利用された
- 第1節は支配的・排他的な印象を持たれるようになった
- 戦後、第1節と第2節の使用が避けられるようになった
- 現在は第3節のみが公式なドイツ国歌とされている
- 第3節には団結・法・自由といった価値が込められている
- 国歌のメロディは讃美歌や旧オーストリア国歌とも同じ旋律である
- ドイツ国歌の歌詞には領土的な表現が含まれていた経緯がある
- ナチス時代の利用が歌詞の印象を大きく変えてしまった
- 国歌の歴史を知ることはドイツの価値観と過去を理解する手がかりになる