君が代発祥の地はどこ?横浜・岐阜・鹿児島など複数の説を解説

君が代発祥の地はどこ?横浜・岐阜・鹿児島など複数の説を解説
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「日本の国歌である君が代の発祥の地はどこなのか」と疑問に思い答えを探そうとしても、横浜の妙香寺や鹿児島の神社、あるいは岐阜の春日村や京都など、複数の場所が出てきて戸惑ってしまうことはないでしょうか。

実は、これらの場所はどれも間違いではなく、それぞれが国歌を構成する「旋律」「歌詞」「象徴」といった異なる要素における起源を主張しているのです。

私たちが普段耳にする旋律や心に響く歌詞、そして象徴としての石、それぞれに「始まりの場所」が存在すると考えられます。

この記事では、それぞれの地が持つ歴史的な背景と根拠を整理し、国歌がどのように形作られてきたのかを紐解いていきます。

この記事を読むと分かること
  • 横浜の妙香寺が日本初の国歌演奏の舞台となった歴史的背景
  • 鹿児島に残る薩摩琵琶や神舞と歌詞選定の深い関わり
  • 岐阜県春日村で実際に見られるさざれ石の地質学的な正体
  • 京都や福岡を含めた複数の発祥地説が示す国歌の多層的な成り立ち
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横浜と鹿児島にある君が代発祥の地の説

横浜と鹿児島にある君が代発祥の地の説

日本の国歌である『君が代』のルーツを探る旅は、近代国家としての体裁を整えようとした明治初期の動きと、古くから受け継がれてきた武家文化の両面を見ることになります。

ここでは、国歌という制度が動き出した「横浜」と、その魂とも言える歌詞を育んだ「鹿児島」という、二つの有力な発祥地について詳しく見ていきましょう。

吹奏楽発祥の地とされる横浜の妙香寺

横浜市中区にある妙香寺(みょうこうじ)は、日本の国歌の歴史において「制度としての始まりの場所」として極めて重要な位置を占めています。

ここは、単に歌が歌われた場所というだけでなく、日本における吹奏楽の発祥の地としても知られています。

明治維新直後、横浜は諸外国との窓口であり、外交の最前線でした。

当時、各国の軍艦が入港し、祝賀行事が行われる際、外国側は自国の国歌を演奏していましたが、日本にはそれに相当する楽曲が存在しませんでした。

この「外交儀礼上の空白」を埋めるために動いたのが、当時横浜に駐屯していた英国歩兵隊の軍楽隊長、ジョン・ウィリアム・フェントンです。

彼は、薩摩藩から派遣され、妙香寺で合宿訓練を行っていた若き藩士たち(後の薩摩バンド)に対し、国歌の必要性を説きました。

この妙香寺での訓練と交流こそが、日本が近代的な「ナショナル・アンセム」を持つきっかけとなったのです。

現在、妙香寺の境内には「君が代発祥の地」と刻まれた記念碑が建てられており、当時の歴史的意義を静かに伝えています。

フェントンによる初代君が代の旋律

多くの人が意外だと感じるかもしれませんが、明治初期に横浜で誕生した最初の『君が代』は、現在私たちが知る旋律とは全く異なるものでした。

フェントンが作曲したこの「初代・君が代」は、西洋の音楽理論に基づいた長音階で作られており、明るい行進曲風の曲調だったと伝えられています。

明治3年(1870年)、この曲は妙香寺の周辺で行われた天覧調練などで、明治天皇の御前で演奏されました。

これが、日本において「君が代」という名の国歌が公に演奏された最初の瞬間と言えるでしょう。

しかし、日本語の抑揚と西洋風の旋律がうまく噛み合わず、当時の日本人にとっては馴染みにくいものだったようです。

結果として、このフェントン版は後に廃止され、宮内省によって現在の雅楽調の旋律に改められることになります。

それでも、国歌制定というプロジェクトが具体的に動き出し、最初の成果物が生まれた場所として、横浜の重要性が揺らぐことはありません。

国歌の法制化や歴史的な変遷についてさらに詳しく知りたい方は、以下の記事も参考にしてみてください。

歌詞の起源である鹿児島の薩摩琵琶歌

横浜が「曲」の故郷なら、鹿児島は「詞(ことば)」の故郷と言えます。

現在歌われている歌詞は、平安時代の『古今和歌集』にある古歌が元になっていますが、それが明治の世まで武士たちの間で広く親しまれていた背景には、薩摩藩独自の文化がありました。

戦国時代、薩摩の島津忠良(日新斎)は、家臣の教育のために琵琶の演奏を奨励しました。

これが「薩摩琵琶」です。

この薩摩琵琶の曲目の一つに『蓬莱山(ほうらいさん)』という祝儀曲があり、その一節に「君が代は千代に八千代に…」という歌詞が含まれていたのです。

薩摩の武士たちは、幼い頃からの教育を通じてこの歌詞を繰り返し歌い、身につけていました。

彼らにとってこの言葉は、単なる古典文学ではなく、主君の長寿と家の繁栄を願う、血肉化した精神的な支柱だったと考えられます。

だからこそ、国歌制定の場において、この歌詞が自然と採用される土壌があったというわけです。

大宮神社の神舞に見る古い伝承

鹿児島県内には、薩摩琵琶の成立よりもさらに古くからこの歌詞が地域に根付いていたことを示す証拠があります。

それが、薩摩川内市の入来町にある大宮神社に伝わる「入来神舞(いりきかんまい)」です。

この神舞は約700年の歴史を持つとされ、毎年11月の祭礼などで奉納されています。

驚くべきことに、この神事で詠唱される歌の中に、『君が代』の歌詞がそのままの形で含まれているのです。

これは、明治政府が国歌を制定する遥か以前から、この地で神への祈りの言葉として「君が代」が生きていたことを示しています。

鹿児島県はこの事実を重視し、「君が代発祥の地」を県の歴史的な事始めの一つとして認定しています。

単に中央政府が決めたから広まったのではなく、地域の信仰や生活の中に深く根ざしていた言葉が、やがて国の歌へと昇華されたというプロセスが見て取れます。

薩摩藩の大山巌が歌詞を選定した経緯

横浜でフェントンから「歌詞を用意してほしい」と依頼されたとき、その選定を行った中心人物こそが、後の元帥陸軍大将であり、当時は薩摩藩の砲兵隊長だった大山巌です。

大山は和歌や漢詩に造詣が深い教養人でした。

フェントンの提案を受けた際、彼は自分の故郷で愛唱されていた『蓬莱山』の一節を思い出し、それを国歌の歌詞として提案したとされています。

もし大山が薩摩藩出身でなければ、あるいは彼が薩摩琵琶に親しんでいなければ、現在の国歌は全く違った歌詞になっていた可能性が高いでしょう。

このエピソードは、横浜という「場」と、鹿児島という「人・文化」が交差した瞬間に、日本の国歌が誕生したことを象徴しています。

つまり、発祥の地を論じる上では、この両方の要素が不可欠なピースとして組み合わさっているのです。

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岐阜や京都が君が代発祥の地である理由

岐阜や京都が君が代発祥の地である理由

横浜や鹿児島が「歌の成立」に関わる発祥地だとすれば、岐阜や京都は歌詞に描かれた「情景」や「権威」の源流としての発祥地と言えます。

特に歌詞の中にある「さざれ石」という具体的な物質に注目すると、また違った景色が見えてきます。

岐阜県春日村のさざれ石公園と巨石

歌詞にある「さざれ石の巌(いわお)となりて」というフレーズは、小さな石が長い年月をかけて大きな岩になる様子を表しています。

これを単なる詩的な比喩だと思っている方も多いかもしれませんが、実は物理的な実体として存在するものです。

その有力な産地とされているのが、岐阜県揖斐川町の春日地域(旧春日村)です。

この地には「さざれ石公園」が整備されており、実際に苔むした巨大な岩塊が鎮座しています。

この石は岐阜県の天然記念物にも指定されており、国歌に歌われている「さざれ石」の姿を目の当たりにすることができる貴重なスポットです。

さらに興味深いことに、現在、皇居や明治神宮、伊勢神宮など、日本全国の著名な場所に奉納されている「さざれ石」の多くは、この旧春日村から産出されたものです。

つまり、私たちが全国で見かける国歌の象徴は、この岐阜の地から送り出されているのです。

この点において、岐阜県は国歌の「物質的な発祥の地」と呼ぶにふさわしい場所と言えます。

さざれ石が巌となる地質学的な解説

では、なぜ「小石」が「岩」になるのでしょうか。

これには地質学的な明確な理由があります。

専門的には「石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)」と呼ばれるものです。

石灰岩質の山などから溶け出した炭酸カルシウム(コンクリートのような成分だとイメージしてください)を含んだ水が、河原などの小石(さざれ石)の隙間に入り込みます。

これが長い時間をかけて接着剤の役割を果たし、たくさんの小石を一つの巨大な岩の塊へと凝結させていくのです。

生物が成長するように大きくなるわけではありませんが、長い年月をかけて小さなものが結合し、不動の巌となるプロセスは、まさに「千代に八千代に」という永続性を象徴する現象と言えます。

岐阜県の春日地域は良質な石灰岩地帯であるため、この現象が顕著に見られる場所なのです。

京都の古今和歌集と皇室ゆかりの地

京都が君が代の発祥の地だと主張される根拠は、その歌詞の「文学的な起源」にあります。

君が代の歌詞は、初めて世に出たのが「古今和歌集」です。

この和歌集は、醍醐天皇の命令により、延喜5年(905年)に編纂されました

その舞台こそが京都です。

もともとこの歌は「わが君は」で始まる歌として収録されており、長い時間をかけて「君が代は」へと変化しました。

京都には、この歌の変遷を見守ってきた歴史があります。

京都市内の乃木神社や護王神社などにも立派な「さざれ石」が祀られており、また明治天皇の伏見桃山陵の墳丘もさざれ石で覆われているとされます。

京都は、この歌が単なる流行歌ではなく、皇室の繁栄を願う格式高い歌として定着していった「権威付けの場所」としての側面を持っています。

文学としての誕生と、それが宮廷文化の中で洗練されていったプロセスを考えると、京都もまた無視できない発祥の地の一つです。

福岡の志賀海神社に残る古代の謎

主流の説とは少し離れますが、福岡県、特に糸島地方や博多湾岸を「真の発祥の地」とする非常に興味深い説も存在します。

これは一部の歴史研究者や愛好家の間で「九州王朝説」と絡めて語られることが多いものです。

この説の根拠の一つとなっているのが、福岡市東区の志賀島にある「志賀海神社(しかうみじんじゃ)」の神事です。

ここの「山誉め祭」で歌われる神楽歌には、「君が代」の歌詞と酷似したフレーズが登場します。

さらに、この地域の地名を調べると、「千代」「さざれ石(海岸の細石)」「巌」といった歌詞に対応する場所が実在するという指摘もあります。

もしこの説が正しければ、『君が代』の起源は平安時代よりもさらに古く、古代の海人(あま)族や九州の地域支配者を称える歌だった可能性が出てきます。

謎多き古代史のロマンを感じさせる説として、知っておくと面白い視点です。

複数存在する君が代発祥の地の総括

複数存在する君が代発祥の地の総括

ここまで見てきたように、「君が代発祥の地」とされる場所は、それぞれ異なる根拠を持っています。

  • 横浜
    国歌という制度が始まり、最初の曲が作られた場所。
  • 鹿児島
    歌詞が武家文化や神事として保存され、選定された場所。
  • 岐阜
    歌詞にある「さざれ石」の実物が存在し、供給している場所。
  • 京都
    歌詞が文学作品として編纂され、権威づけられた場所。
  • 福岡
    古代の信仰や地名との関連が指摘される場所。

これらは互いに矛盾するものではなく、一つの国歌が形成されるまでの長い歴史の中で、それぞれの地域がバトンを繋いできた結果と言えるでしょう。

どこか一か所だけが正解なのではなく、これら全てが『君が代』という歌の奥深さを形作っているのです。

それぞれの地を訪れる機会があれば、その土地が語る国歌の物語に耳を傾けてみてはいかがでしょうか。

本記事の情報は、歴史的な諸説や伝承に基づいています。史実の解釈にはさまざまな見解が存在するため、あくまで一つの視点としてお楽しみください。正確な学術的詳細については、専門書や博物館等の公式資料をご確認ください。

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